不思議。

よく、他人のことは判断できるが、自分のことになるとダメだ、ということを聞く。

 

確かに、誰かの悩み、みたいなのは客観的に観れるから、また、自分が当事者で無い

場合には更に冷静に判断出来るから、問題が整理しやすいのかもしれない。

 

占い師もどうやらそういうことらしい。

実際に今まで出会ったそういった能力をお持ちの方がそうだった。

一部、例外の方がいらっしゃって、その方は自分のことも分かるらしい。

 

そういった風に考えていくと、所詮誰かに話を聞いてもらっても、全く同じ心境になれる

人は居なくて、何となくその人になったつもり、位になれるのが関の山だ。

悩みを話す行為は、悩み自体の解決というよりは、自分が今こういった状況で辛いんです、という

自分を知って欲しいという意味合いの方が強いのかもしれない。

ただ、問題の解決には至らないものの、この行為が生む効果というのは、とても素晴らしい

ものだと実感している。私を含めて多くの方が、誰かに本気で何かを話す、という行為が

出来辛い状況となっているのは間違いないであろう。コミュニケーションって、きっとそういうこと

なのではないかと思う。そう、今話題の「雑談力」が必要なのではなく、人の話を聞く姿勢だとか

身体が失われていることが問題なのである。スマホやインターネットの普及に伴い、確かに我々の

生活は飛躍的に向上したかもしれない。しかし、その背景にある失われている部分にそろそろ着目

すべき時だなとつくづく思う。色々な方と交流を持たせていただく中で、人間の根源的、本質的喜びや豊かさがどの辺にあるのかが、朧げながら観えてきた。人は、やはり一人では生きられない。

地球上に居る誰かとのまさにこの今の瞬間を共有できている、という無意識的領域のかなたに、その答えが存在しそうである。

 

最初に書こうと思った、「不思議」というタイトルに話を移す。

自分とは過去からの継続で、自分とはこういった存在とか、思考とか、キャラクターって少なからず

私自身はある意味で固定してきた。自ずと今までの経験から、きっとこの先もある意味で同じような

未来が待っていそうだなと何となく思ってきた。しかし、様々な角度から観てみても、そんなことは

ありえないという事にやっと最近気付いた。自分の可能性を狭めているのも自分自身だし、

自分の未来を無意識的に占っているのも自分なのだ。きっと何かしら固定観念が働いている。

その観念の外に存在する空気に触れていたい。

 

最近のとある出来事でふわっとなったのだ。

自分じゃない自分が、突然姿を現した。

自分じゃない自分も、自分なのだが・・・

 

今はそこに居る自分自身が何を起こしていくのか、なかなか楽しみなのである。